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大阪高等裁判所 昭和61年(う)503号 判決

主文

本件控訴を棄却する。

理由

本件控訴の趣意は、大阪地方検察庁検察官検事田中豊作成の控訴趣意書記載のとおりであり、これに対する答弁は、弁護人鍋島友三郎作成の答弁書記載のとおりであるから、これらを引用する。

本件控訴趣意中、事実誤認の主張について

論旨は、要するに、被告人が本件犯行時未必的殺意を有していたのは証拠上明白であるのに、これを認めるに足る証拠がないとして単に傷害の事実を認定した原判決は、証拠の取捨選択ないし価値判断を誤つた結果事実を誤認したもので、その誤りが判決に影響を及ぼすことが明らかである、というのである。

よつて、検討するのに、原判決挙示の各証拠によれば、未必的殺意を認めず、単に傷害の事実のみを認めた原判決の事実認定は、十分これを肯認することができる(ただし、原判決が、被告人が建築請負業甲組こと甲に雇われた時期につき、昭和六〇年六月末であるのに、同年九月であると認定しているのは、事実の認定を誤つたものであるが、その誤りは判決に影響を及ぼさないことが明らかであり、また原判決が被害者Aの年齢を昭和二三年七月生と判示しているのは、同三五年七月生の誤記であると認める)。

まず、本件傷害に至る経緯についてみるに、原判決挙示の各証拠によれば、原判決(罪となるべるき事実)に記載のとおり、被告人は、同僚人夫である本件被害者Aから、翌朝甲組を辞めその人夫寮を去るに際し、同じく同僚人夫であるB(昭和三六年四月生)を殴ると聞いたので、両名を自室に呼び寄せて、制止、説得、仲裁に努めたのに、Aがこれを聞き入れないばかりか、年長者である被告人に向つて「何や、それならお前が相手になるのか、表へ出ろ。」とけんかを挑む態度に出たため、「わしがこないに言つてやつてるのに言うことを聞けんのか。そんなら相手をしてやろうやないか。」と言つてこれに応じ、体力にすぐれた同人への対抗上、自室内にあつた鎌型包丁一本を取つて同人の背後に続き、同寮の玄関先路上に出たところ、振り返つた同人が右手を振り上げ被告人に殴りかかるような体勢をとつたため、とつさに右順手に持つたその鎌型包丁を前方に突き出して、同人の右上腹部を一回突き刺し、よつて、同人に対し入院加療一二日間を要する腹部刺創を負わせたものであることを、十分肯認できる。

所論は、被告人は、目上である自分が制止しているのに、Aが粗暴な振舞いをやめないどころか却つてけんかを挑んできたのに対し、極度の憤激状態になり、相手が素手であることを十分承知のうえ、相手に勝つために凶器を使用しようとしたものであり、犯行直前の被告人のこのような心理状態からみても、被告人に未必的殺意が存したことは明らかである旨主張する。しかしながら、Aは、被告人が年長者ぶるなどするので、必ずしも被告人に心服するまでには至つていなかつたとしても、被告人自身、Aに対し事件当夜送別の酒を振舞い、互に再会を期し、翌朝の起床用の目覚し時計を同人に快く貸すなど、同人に悪感情を持つていなかつたことは証拠上明白である。これに加え、前記本件発生の経緯、とりわけ被告人がAからけんかを挑まれたのに立腹してこれに応じ、同人に続いて前記人夫寮の玄関先路上に出た具体的状況に徴すると、包丁を持ち出した動機について、被告人が、捜査段階において、原判示のような彼我の体格差や直前のAの粗暴な言動から、素手ではかなわないから対抗上持ち出したと供述しているのに不自然・不合理なところはなく、包丁を持ち出して同人に追尾した際、被告人は、同人に包丁を示してけんかをやめさせることだけにその目的を限定して意識していたのではないとしても、その包丁による具体的殺傷行為を表象していたものではなく、漠然とこれを対抗手段に用いようと考えていたのにとどまるものと認められ、したがつて、犯行直前の被告人の心理状態が、所論のいうように、極度の憤激状態であり、直ちに殺意に結びつくような状況のものであつたとはとうてい考えられない。

また、所論は、本件凶器は、原判示のような鋭利な鎌型包丁であつて、その形状からみて容易に人を殺傷しうる性能を有していることは明らかであり、被告人は右包丁で人体の枢要部である腹部を目掛けて突き刺したものであるから、被告人には未必的殺意があつた旨主張する。なるほど、被告人が殺傷能力が十分あると認められる本件鎌型包丁を持ち出し、それで人体の枢要部である上地の右上腹部を突き刺したものであることは、所論のとおりであるが、しかしながら、本件凶器は、刃体の長さ約一七センチメートルであるなど原判示のとおりの刃先の鋭い鎌型包丁であるが、刃の部分が鎌のように湾曲しているものではなく、むしろいわゆる文化包丁に近い刃物であつて、これを力一杯腹部に突き刺せば、容易に刃体全長が刺入可能なものであるところ、被害者Aの傷は、右上腹部にあつて深さ約六センチメートルにすぎず、本件包丁の刃体部分の約三分の一が刺入したにとどまつていることに加え、同人が被害当時上半身半袖シャツ一枚を着用していただけであり、また被告人の攻撃を避けるため後ろにさがることもせず、逆に後記のとおり右手を振りあげて殴りかかるような体勢をとつていたことを考え併せると、被告人が本件包丁で受傷部位を力強く突き刺したとは認めがたい。そうしてみると、このような身体の枢要部である上腹部を鋭利な刃物で突き刺す行為が被害者の生命に対する危険をはらんでいることは否定できないとしても(上地は受傷後約一二日目に余病併発もなく病院を退院しているのであつて、現実に発生した本件刺創の直接生命に及ぼす危険が、それほど高度のものでなかつたことは、原判示のとおりである。)、本件傷害の部位・程度は、なお被告人の殺意の存在に疑問を抱かせるものであつて、所論指摘の事由から直ちに被告人の未必的殺意を肯定することはできない。

更に所論は、被告人がAと正対して直ちに加害行為に及んでいること、また同人を突き刺した後、なおも包丁を手にしたまま同人を追跡したことなど、犯行の具体的状況及び犯行直後の被告人の行動を殺意を肯定すべき根拠として主張する。しかしながら、関係証拠によれば、Aの背後に続いて前記人夫寮玄関先路上に出た被告人は、振り返つただけの上地をいきなり右包丁で突き刺したのではなく、振り返つた同人と約六、七十センチメートルの間隔で正対し、双方怒鳴り合ううち、同人が右手をふり上げ被告人に殴りかかるような体勢をとつた(これに反するAの供述が、被告人及び目撃者Bの供述に照らして信用できないのは、原判決の説示するとおりである。)のに対し、とつさに右包丁でAの腹部を突き刺した事実が認められ、右事実を、犯行直前の被告人の心理状態及び同人の受傷の部位・程度等に関する上記認定事実と総合すると、被告人は結果について考える余裕もなく、同人の動作に触発され瞬時に包丁を突き出したものであるという疑問をとうてい否定しえず、また、犯行直後における被害者に対する被告人の追跡行動も、被告人が原審公判廷において供述するように純粋に救護の目的に出たものとは考えられないとしても、その追跡の態様は、直ちに被告人の殺意を裏づけるに足るものとは認められない。

そして以上所論の指摘する諸事情を総合判断しても、被告人が本件犯行に際し、被害者の死亡の結果を未必的にもせよ予見し、これを認容していたと認めるにはなお合理的な疑いが存し(被告人の検察官に対する供述調書中の所論指摘の供述は、結果に対する無関心を表明するにとどまるものと解されるが、かりに殺人の未必的犯意を認めたものであるとすれば、上記説示に照らしとうてい信用できない。)、原判決が関係証拠に基づき未必的殺意を認めるに足る十分な証明がないと判断したのは正当として是認することができ、その他所論及び答弁にかんがみ、記録及び証拠物を調査し、当審における事実取調の結果を併せて検討しても、原判決に所論のいう事実誤認はない。論旨は理由がない。

本件控訴趣意中、量刑不当の主張について

論旨は、本件犯行の態様、被害の結果等諸般の情状に照らすと、当然実刑に処すべきところ、刑の執行を猶予した点において、原判決の量刑は著しく軽きに失し不当である、というのである。

そこで、所論及び答弁にかんがみ、記録及び証拠物を調査し、当審における事実取調の結果をも参酌して検討するのに、本件は、被告人が鋭利な鎌型包丁で被害者の腹部を一回突き刺し、腹部刺創の傷害を負わせた事案であるところ、凶器を用いて被害者の身体の枢要部を刺した被告人の行為は、現に身体に対する侵害を惹起するのは勿論、生命に対する危険性をも生じさせたものであるうえ、被告人が昭和五一年二月に傷害、暴行罪で罰金二万円に、更に同五九年九月に窃盗罪で懲役八月・二年間刑の執行猶予に各処せられ、本件が右猶予期間中の犯行であることなど諸般の情状に照らせば、その犯情は軽視することができないが、一方本件の発端が被告人の善意から制止・説得・仲裁に対し被害者がけんかを売つて出たことにあり、更に犯行直前被害者が先制的に右手で殴りかかるような体勢をとるなど、本件の経過全般に被害者側に責められるべき点が多々あること、被害者が順調に回復し、完治・就労していて傷害の結果は幸いにも比較的軽微であつたこと、雇主の尽力で被害者と金二〇万円を支払う(分割払)旨の示談が成立し、被告人は釈放後の履行を確約しており(原判決言渡による釈放後、約旨による履行期より早く、すでにほぼ全額に近い金額を支払済である)、被害者も被告人を宥恕していること、前示窃盗前科とは罪質が異るうえ、被告人は日常生活や勤務態度について真面目でおとなしいとの評価を得ており、右九年前の傷害・暴行の前科を考慮しても、さほど強い犯罪性向を有しているとは認められず、本件についても反省の態度を示していることなどの酌むべき事情も多く認められるのであり、これらの被告人に有利不利な諸事情をあわせて犯情を総合判断すると、被告人を懲役一年に処したうえ、四年間保護観察付執行猶予を付した原判決の量刑は、刑の執行を猶予した点を含めて、軽きにすぎるものとは考えられない。本論旨も理由がない。

よつて、刑事訴訟法三九六条により本件控訴を棄却することとし、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官石松竹雄 裁判官鈴木清子 裁判官田中明生)

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